早稲田松竹:「ファウスト(2011)」×「ニーチェの馬」

長距離走だ!耐えよ、そして考えよ

「ファウスト(2011)」:評価80

監督:アレクサンドル・ソクーロフ 

出演:アントン・アダシンスキー、ヨハネス・ツァイラーetc

 

 予告編を観ると想像付くかもしれないが、ゲーテの「ファウスト」の第一部だけをソクーロフ監督のアレンジを加えながら映画化した作品。監督はファンタジー要素を限りなく減らすことでリアリティと原作で描かれる人間の愚かさを描こうと試みていたようだ。

 例えばファウストは学こそあるが、貧乏でこそ泥を働いていて、だからこそメフィストーフェレスを高利貸しに置き換えることでファウストが悪魔と出会うことを「必然」と位置づけている。学はあっても貧しければ心の闇に蝕まれ、己の魂が悪魔に乗っ取られる条件を作り出したのだ。そして高利貸しの狂気で不可解な行動に疑問を抱き、離れれば良いものを「かわいい女の子とデートが出来る」「楽しいことが起こる」という期待を抱いたがためファウストは高利貸しから逃げられなくなり地に墜ちる。前半で「神父(能力ある者)と死神(神父に媚びを売る人)はいい組み合わせだ」と言っていた人が後半では「高利貸し(能力ある者)にひっつくファウスト(高利貸しに、女を手に入れるための手回しをお願いする者)」になってしまっている皮肉なストーリーが完成した。

 

 そしてこの作品は原作を読んでいると、かなり笑えるが相当の体力を使う「重喜劇」でもある。日本語訳の原作では訳が分からなかったのだが、役者が話すドイツ語の響きを聴いて、役者たちの狂気な奇行を観てミュージカルのような面白さを見いだした。原作で描かれる脇役たちの意味不明な台詞も視覚・聴覚を駆使することでかなり楽しめることに驚かされました。また高利貸しの間抜けな演技、まさかのある植物の精油と肝臓から人工生命体が出来るとこ、風呂場での珍事など笑える見所も随所に散りばめられていて飽きることはなかった。

 

 だが、やはり難解作。ラストに行くに従ってよく分からない部分が出てきた。

・ファウストが女に自首する場面→一番真実を伝えてはいけない人に真実を伝えている

 

・歪んだ映像の使い分けの法則→風呂場やワルプルギスの夜(?)のシーンなど幻影の世界に使われているのかと思えば違うらしい。しかも、もしそうなれば風呂場でファウストが運命の女と出会うのは矛盾している。

 

・ラスト→ファウストは何故前向きに新しい人生を歩もうとしたのか?

 

奥が深いな「ファウスト」

 

 

 

「ニーチェの馬」:評価65

監督:タル・ベーラ 出演:ボーク・エリカ、デルジ・ヤーノシュ

 

これはあなたの深読み力と体力が試される作品だ。

なんたって、2時間半の作品なのに数えたら30カットしかない。つまりワンカット平均5分間のテオ・アンゲロプロスもビックリ長回し映画なのだ!!

 

 そして、ストーリーの山場も2カ所しかなくしかもどれもワンカットに収められている。これは10km走並の忍耐力が必要だ。

 

 さて深読みしてみよう。これはニーチェの逸話に基づいて描かれている。鞭を打っても動かない馬にキレてさらに鞭を打ちまくる馬乗りに、ニーチェが駆け寄りそのまま発狂したという伝説だ。しかし、本作品にはニーチェは出てこないし馬の話でもない。当然その逸話を映画化した訳でもない。では監督は何を描きたかったのか?

 

 私は「動かない馬に苛立つ飼い主が、やがてその馬と同じ行動をとってしまう事を描くことで馬の心情を読み解いている」と考えた。根拠は二つある。一つ目は全編通して描かれる虚無感だ。白黒映像、同じ旋律の重くて退屈なBGM、嵐の音、少ない登場人物どこの作品のどこをとっても退廃的で何もない。何もないからフォーカスがあてられている親子の間では会話が皆無である。しかも馬が動かない、嵐が激しいのもあってこの親子はイベントから隔離されてしまった。だから彼らは毎日起きて、寒くてわびしく辛い家事をして、ジャガイモを食って寝るの繰り返しである。ニーチェ伝説の馬は毎日、

寝るor重労働の繰り返しに虚無感を抱いた馬の末路だろう。この親子の段々動かなくなっていく様子がこの馬と似ている。後半のあのくだりも「ちと頑張ってみたがやはり駄目だった」親子の絶望感によるものだと考えられる。

 二つ目は絶望だ。この作品に出てくる馬はボロボロで「バルタザールどこへいく」のロバ並に可哀想な扱われ方をしている。「心身ボロボロになったためあの馬は動かなくなった」と仮定すると、この親子も同じ運命をたどっていたことに気づかされる。親子は行動手段を失い、わびしい食事で日々をやり過ごしていた。しかし、泣きっ面に蜂のごとく災難に遭い続け、死活問題にまで発展する。だからあの展開は起きた。しかし、虚無から絶望に至った人は立ち直れなかった。そしてあのエンディングへとつながった。

 つまり監督は、退廃的な生活ばかり送るとやがて絶望に見舞われ動かなくなる。もちろん馬などといった「使うもの」にも言える。だからアクティブに生きろ、そして使えと言いたかったのだろう。それにしても長かったm(_ _)m