「オン・ザ・ロード」:TOHOシネマズシャンテにて

ビートニク文学の映画化はヴェリーハード

「オン・ザ・ロード」:評価55

監督:ウォルター・サレス 出演:ヴィゴ・モーテンセン、キルティン・ダンストetc

 

 ビートニク文学とは一言で言うと、「中身がないくせに読者を興奮させるドラッグ文学」である。例えば、ウィリアム・バロウズ著「裸のランチ」。この本はストーリーというストーリーが存在しない。筆者のドラッグ服用後の視界を文章化しているようである。警察に追われ電車に駆け込む。その警官が巨大な虫に見える。とか、嘔吐をもよおすドラッグを嘔吐しながら食べるみたいにシュールな描写のオンパレードだ。登場人物の大半がデオチなのも特徴的である。同じくビートニク小説でこの映画の原作「路上」はどうか?この本も中身がない。一応、ケルアックの自伝的小説である。主人公が行く先々で出会った人々と乱交騒ぎ。無駄に固有名詞を使いインテリを保ちつつ、女とドラッグに溺れる道中を400pに渡って描かれていた。カポーティが「これはタイプしているだけだ」と苦言を呈すのもよく分かる作品である

 どちらの本も、このように酷いのだが何故か読み進めていくと気分が高揚としてくる。後者なんかほとんど記憶に残っていないのに(前者は高校1年生の時に読んだのに今でも鮮明に覚えている箇所がある)、興奮だけは忘れない。それだけ危険な小説だ。それを映画化するには勇気がいるだろう。

 先に結論を言う。「茶色ロードムービーの巨匠が気張っても再現不可能だった」。ウォルター・サレスと言えば、おばあちゃんと見知らぬ少年の珍道中を描いた「セントラル・ステーション」、チェ・ゲバラが革命家に目覚める前の南米旅行時代を映画化した「モーターサイクル・ダイアリーズ」とロードムービー、しかもラテンで茶色いロードムービーを描くのが上手いイメージがある。フランシス・フォード・コッポラがこの映画化を彼にたくしたのはナイスな選択であった。

 しかし、ただ淡々とケルアックの軌跡を追っているに過ぎなかった。「裸のランチ」の映画化の時もグロテスク映画の巨匠クローネンバーグが監督していたが、バロウズのドラッグライフ止まりで終わっていた。とはいえ、「裸のランチ」映画版はあまりのシュールさに多少の興奮を観客に与えることができたであろう。原作のようなカオスさが表れていた。 

 「オン・ザ・ロード」は原作においてシュールさは皆無。退廃が潜むだけなので、興奮させる映画化は非常に難しい。狂ったジャズや民族楽器のビートで演出を試みるが、どうも興奮が持続しない。上映時間も約130分ぐらいと長いため、旅に行って帰宅、そしてネクストトラベルを繰り返す描写に冗長さが見え隠れする。一応、監督は業をみせて抵抗はする。主人公の持っている本がジョイスの作品からプルーストの作品に変わっている表現に彼の手腕が表れている。ジョイスの本と言えば「ユリシーズ」や「ダブリンの市民」のように、人々の日常の刹那に人類の歩んだ軌跡を強引に押し込む作品で有名である。一方、プルーストは「失われた時を求めて」のように、歴史のゆっくりとそしてドラマティックな動きを巧みな表現でもって描ききった作品である。歴史を圧縮するスタイルから壮大に話題を広げていくスタイルに主人公の思想が変わったことを暗示する表現としてメッチャテクニカルな手法だなと感じた。

 でも期待しすぎたためか残念な作品だった。しかし、監督が悪いわけではない。ビートニクは文章で楽しむ者である。活字中毒者が読んで勝手に興奮する。それで穏便に済むのだ。映像化しても、その独特のドラッグ作用は再現できない。畢竟、ビートニク文学とは本の良さを伝えてくれる代物だったと言えよう。

コメント: 0 (ディスカッションは終了しました。)
    まだコメントはありません。