「失われた時を求めて1」:チェの冒険留学までに読み切るぜの会

女性を巡る奮闘

 私チェ・ブンブンは、来年フランスに留学する。フランスで映画論や文学を学ぶ、あるいはフランス人とディスカッション(ビブリオバトルでも普及させるか)をしたい私は留学までにマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を読んでおきたいなとずっと感じていた。しかし、全10巻もあるこの本を読破するなんてと尻つぼみしそうになっていた。

 そんな時読んだ「まんがで読破」によって、この作品の面白さを見いだし、「わたしはロランス」の大学シーンで主人公がこの作品について語っていたことから決心がついたのである。長いご託はさておき、解説するとしよう。

 1巻目は主人公「私」の幼少期~青春期・思春期までを描いている。

 幼少期の「私」はズバリマザコン時代と言えよう。母親を愛していた「私」は、母親のキスを求めていた。しかし、デカダンスなパーティに邪魔されてなかなかキスをしてもらえず、ぐずる。誰しもが幼少期に経験したであろうこのシーンから語るから先の長さに臆する俺。でも後に、この描写が重要となってくるのである(後述)。この小説の面白いところは、ある種の黒歴史に対する懐古を哲学・心理学っぽく細かく分析しているところである。例えばp77ページを読むと、

 

  この回想、この古い昔の瞬間は、私の明瞭な意識の表面にまで達するだろうか、昔  

 と同一のある瞬間の吸引力が非常に遠くから作用して、いま私の奥底で、この昔の瞬

 間をうながし、はげまし、ふるいたたせようとしたこのときに?私は知らない。もう

 私は何も感じない、回想は停止し、ふたたび沈んでしまったらしい、誰が知ろう、そ 

 れがいつかまたその暗夜からあがってくることを?十回も私はやりなおし、その回想

 のほうにかがみこまなくてはならない。そして、そのたびに、困難なつとめ、重大な

 仕事といえば何でもわれわれを尻込みさせるあの卑怯さが、そんなものは投げ出すの

 だ、苦もなく反芻される今日の私の倦怠、あすの私の欲望を考えるだけにして、いつ

 もの紅茶を飲んでいればいい、と私に忠告した。

 

 森鴎外が「舞姫」で描いた、過去を省みるが、結局自分の都合の良いように回想してしまうメカニズムをまさに解明したフレーズと言えよう。

 これ以降、この作品は「私」の連想・妄想の連続である。愛するジルベルト、気になる人々の思想を芸術やブルジョワと庶民(スワンもブルジョワではあるが、階級はジルベルトが所属する階級の下だと気づかされる)の二項対立シーンを多用することで描ききる。あまりに細々と描くものだから、当時の貴族階級の文化が次第に分かってくる。知識を全力でねじ込んだメタファーによって貴族はコミュニケーションを図る。例えるな らば、博士が庶民に対して専門用語を多用し圧倒するかのようだ。

 この巻では、ブルジョワのデカダンすっぷりを表現する上で前半のジルベルトとの恋が巧みに使われている。読者は最初、「私」はジルベルトの態度急変に違和感を覚えるシーンで疑問に思うであろう。何故ジルベルトは急に「私」に対して冷たくなったのか。それが、「私」がブルジョワ階級上位進出の道を歩み、最高ランクのゲルマント家に潜入し高級娼婦オデットを仕留めるための策略の末に気づかされる。フランス語の発音や教養に執着しまくるゲルマント家のライフ、面倒で複雑な人間関係の末に「私」が語る以下の台詞が恋の退廃を全力で表現する。

 

  つぎからつぎへとやってくる愛情に流されながら、オデットへの愛を持続しようと

 したために、彼女から受けた最初の映像を長く忘れてしまいー二人が親しくなった当

 初以来注意することをやめてしまった彼女のすべての特徴を。

 (p644~645より引用)

 その後の、「土地の名、ー名」という章で再びジルベルトとの華やかな恋愛ライフを語ることで、ブルジョワのドロドロはしているが展開の少ないつまらない恋よりもエキゾチックで高みを目指す恋の方が好きだと言うことを表明していると言えよう。故に、前半の母親、つまり絶対「恋」として結ばれない母親との恋が生きてくるわけである。だめ押しで、母親と教会に行ったときの絵画にアフェアするシーンを挿入していることから、この巻は高嶺の花を摘みに行くが、いざ摘んでみたら富士山で言うなら4合目くらいの花の方が素敵だったと物語っているのだろうと感じた。

 さて、2巻ではどんな技を魅せてくれるのだろうか?

注※「失われた時を求めて」は、ちくま文庫を使用している。